もしも~父が倒れたら〜脳梗塞は突然やってくる〜

脳梗塞で倒れ2日後に発見された父の闘病と介護の記録

脳梗塞、片まひ、高次脳機能障害、失語症、要介護度4 闘病の始まり

忘れもしない2020年2月9日。寒い冬の夜、21:00頃だったでしょうか。私は量販店で買い物をしていました。お店の方との話を終え、ふとスマホをみると着信記録が。

残された1本の留守電メッセージ。それは警察署からでした。なぜ?何の用で?

ざわざわする心を抑えて折り返し連絡すると、父が救急病院に搬送されたという知らせでした。


そこから父にとっても私にとっても、初めてで、先の見えない日々が始まりました。
悠々自適の一人暮らしから脳梗塞、片まひ、高次脳機能障害失語症、要介護度4の判定を受け施設入所までと脳梗塞再発、それからこの先は現在進行形になります。

 

大変な1年でしたが、救急車を呼び病院まで付き添ってくださった父のご友人の皆さま、各病院の医師、看護師の皆さま、入所先のスタッフの皆さまには、感謝してもしきれません。改めて御礼申し上げます。

もし、救急車を呼んでもらえていなかったら、私が倒れて数か月経った腐乱死体の第一発見者となっていたかもしれない・・(ああ、恐ろしい・・。)

ある時、お医者さまに、定期的に脳のスキャンをしてもらっていたら脳梗塞は予測できるのでしょうか?と伺ったところ、脳梗塞は予測できないのです、という回答でした。

(もちろん脳ドッグでの精密検査や自覚症状によって大事に至る前に早期発見できる場合もあります。父のような突発的に起こる脳梗塞は予測不能という意味です)

なので、私が一緒に暮らしていたとしても、脳梗塞を止めることはできなかったでしょう。しかし、転倒にはもっと早く気づいてあげられたのではないか、もっと早く病院に運ぶことができたのではないかと一生後悔しただろうし、何よりもその発見の瞬間がトラウマとなって自分を苦しめ続けることになっただろうと思います。

 

金曜の夜に電話で話をした、というお友達がいました。救急車で運ばれたのは日曜なので、その48時間の間に倒れたことになります。オデコに傷、そして身体の下敷きになっていた腕に褥瘡(床ずれ)ができていました。そして左脳がほとんど真っ黒になっていました。即死に至らなかったのが最大の幸運でした。

 

救急担当の先生が父のベッドに視線を向けながら、このまま目が覚めずに点滴での栄養補給で日々を経ていくと、次第に体力が落ち肺炎などが致命傷となる場合もあるんですよね、と、私に告げているのか、独り言を言っているのかわからないような小さな声で呟いたのをよく覚えています。

 

あの時は、最悪のことも想定せざるを得ないほどの症状だったのだと思います。そして、このまま予後が短かったとしても後悔の無いように見送れることができればいいなぁぼんやり考えていました。

 

左脳のダメージなので、右半身麻痺と高次脳機能障害、失語がかなり重い後遺症として残りましたが、約半年で目覚ましい回復ぶりをみせ、車いすでの生活、やわらかい食事なら口から食べられるようになり、マヒした足を補助する装具を作ってもらい、トイレトレーニングなどのリハビリを受けるまでになりました。

 

そんな生活も落ち着いたかと思ったおよそ1年後、脳梗塞を再発。施設の方がすぐに気づいてくださったので、緊急手術を受け、2週間ほどでもとの施設に戻ることができました。一瞬、これで振り出しに戻ったか・・と思いましたが、私自身は昨年の経験があったからこそ落ち着いて対処できる部分もあったし、以前、よくわからなかったことが理解できるようになったりしていました。面会制限などで入院中の生活状況が見えずらくなっているせいで、未だに何がベストな選択なのか見いだせない部分もあり、自宅介護の方とはまた違うやりにくさを感じています。

 

介護保険とは無縁の生活から、いきなり要介護度4となり、独居老人(家族(私)は別世帯)であるため、病院の先生からも相談員さんからも自宅介護についての話はありませんでした。要介護度4がどんなものなのかまったく理解できていない私だけが、実家のバリアフリーリフォームについて調べたり、補助金の申請条件を確認しに行ったりしていました。結局、空振りに終わったわけですが、この件も別途書きたいと思います。

 

あまりにも未知の世界過ぎて右往左往もいいところ、まったくルールのわからないゲームの世界に放り込まれたような心持ちの1年間でした。父に関わっている時間と、自宅や職場にいる時間、時空の違うパラレルワールドを行き来しているような感覚。でも普段と変わらない職場が、自分自身を取り戻す場所になってくれていたと思います。急な欠勤などでご迷惑をかけても、家族第一でと言ってくれる職場に感謝です。

 

2020年度の特殊すぎる状況ではありますが、病院や高齢者施設への全面的な面会制限がしかれるようになり、友人たちのお見舞いは急激に絶えていきました。一時はOKがでた外出許可も取り消しとなりました。せめてSNSなどでやり取りができるのだったら良かったのですが、失語症のせいで得意だったパソコンも扱えなくなり(操作は可能だが文字の読み書きが難しい)、父は寂しいだろうしストレスも溜まっていることと思います。その反面、緊急事態宣言のお陰で私の仕事が減ったこともあり、私の体力・気力の面では大変助かった部分もあります。両方を秤にかけることはできませんが、介護者の健康保持は最重要課題でもあります。

 

つらつらと書き出すだけでも、いろんな事がありました。

1年前の私が知りたかったこと、1年前の私に伝えたいことを備忘録的に綴っていこうと思います。


介護に至る道は千差万別、ネットでいくら情報を探しても、では父の場合は何が最適解なのか?となると、やはりネットだけでは答えがでないことが多かったです。

常に最新情報をあたること、知識を仕入れたうえで、主治医の先生や、現場に詳しい相談員の方に相談するのが一番です。

その上で、この体験記がこれから介護を担う方のお役に立ちましたら嬉しく思います。